役割を終えるその時まで。――ベッドの上の祖父と、私たちの繋がっている命。
今回のコラムは少し重いテーマです。
でも、どう生きるかということは、ヨガのテーマだと思うので、このことについて書いてみたくなりました。
最近、あるSNSで”安楽死”についての投稿を見ました。
みんな様々なコメントがある中で、安楽死について安易とも受け取れる言葉がみられました。
安楽死について私は思う。
安楽死には反対です。
そのいのちを、誰が死んでいいと決めるのでしょうか。
自分のいのちは自分だけのものじゃない
最近私の祖父が入院して治療を受けています。
96歳。
今は食べることができていません。
意識はしっかりしてるし、そこにきちんと生きようとしている祖父がいます。
私とおんなじ命を生きています。
どっちの命が大切で、どっちの命の方が重いかなんて誰にも決められないし、命に区別は無い。
私たちは生きていて、例えばそれがある人の言う、生産性の低いというような時間を過ごしていたとしても、必ずそれが何かにつながって、役割になっている。
たとえそれが誰かを傷つけるような行為であっても、それによって学ぶ人がいたり、それによって何か誰かの意識が動く(もちろん誰かを傷つける行為をした人は報いを受けます)。
そしてその人がまた何かを生み出し、何か新しい動きが生まれる。
仏教では人にはすべて役割があり、どんな人間でもその役割を終えてなくなると言われます。
例えばベッドで寝たきりだったとしても、それはその時の役割なのです。
家で祖母が祖父の帰りを待ちながら「どんな状態でも生きててくれれば」とポツリと言いました。
祖母は昨年、私の父、つまり息子を亡くしています。
だからこそ、生きているという事実は祖母の生きる意味になっていると思います。
私にとっても、祖父が今生きていることは、とても尊くありがたいことです。

安楽死を安易に口にする人たち。
自分の命、他人の命、まだ見たこともない人の命、その命についてきちんと考え抜いたことがあるだろうか。
命とは何なのか。
なぜ私たちは生まれてきて、なぜ死んでいくのか、その答えが出ないうちに安易に安楽死とか尊厳死などと言う言葉は使わないで欲しい。
これを読んでいるあなたの命もまた尊い。そして誰かの命につながっている。
命を語るのは簡単じゃないはず。
大往生だから亡くなってもいいわけじゃない。
生きている、そのことこそが尊いのです。
どんな人の命もそこに区別や差別があってはいけないと思います。
自分の命ときちんと向き合って、生きるということときちんと向き合って。
あなたが生きるこの有限の時間をこの身体で生き抜いてほしい。
命をどう扱うか、その話をするのはその後だと思います。