【カルマの法則】「過去を晒す復讐」が断ち切れない負の連鎖を生む理由
動画共有プラットフォームを開くと、目にするつもりがなくても、強烈な言葉や告白がふと視界に飛び込んでくることがあります。
特に、ユーチューバーやインフルエンサーによる過去の辛い経験や、苦しい生い立ちについての告白動画は、人々の関心を集めやすいコンテンツの一つです。
彼らの多くは、自身の痛みをさらけ出すことで共感を得たり、同じ境遇の人を勇気づけたりしています。

晒された「過去」がもたらす負の連鎖とカルマ
しかし、先日目にしたある動画は、胸の奥に冷たい影を落としました。それは、「母親に捨てられた」という苦しい過去を公表した投稿者が、その「母親をSNSで見つけ出し、”晒す”」と宣言する内容でした。
これを目にしたとき、何とも言えない心のモヤっと感。
そしてコメント欄にも「晒してしまえ!」といった攻撃的な文字。
この告白の背景にある、捨てられた側の計り知れない苦痛や、癒えない心の傷は想像に難くありません。
親が子を捨てるという行為は、社会規範としても、人間的な感情としても、決して許されるものではない。
その痛みを知らない私が、安易に「気持ちがわかる」などと言うことはできません。
それでも、心に引っかかるのは、その行為がもたらすであろう「負の連鎖」です。
インド哲学、特にカルマ(業)の教えは、「行動は必ず結果を伴い、自分自身に還ってくる」という原理を説きます。「暴力には暴力を」という論理は、一時的に正義を果たしたように見えても、それは新たな「悪しき行い」であり、「負のカルマ」として自らに課すことになります。
憎しみにかられて誰かを「晒す」という行為は、加害者を罰する正義の鉄槌に見えるかもしれません。しかし、それは同時に、多くの無関係な第三者を巻き込み、私的な制裁という名の「新たな暴力」を生み出しているのではないでしょうか。

晒された母親が被るであろう制裁は、投稿者が負った過去の傷を帳消しにはできないし、そして、この行為によって投稿者自身が負う「誰かを公衆の面前で攻撃した」という新たな加害の業は、誰にも裁かれないまま、自身の魂に深く刻み込まれてしまいます。
憎しみは憎しみで返していいというメッセージは、社会全体に広がり、ますます攻撃的な価値観を生み出す危険性もあります。これが一番良くないと思う!!
キレイごとかもしれないけれど、悲しい経験をしたからこそ、その痛みを他者への慈悲に変え、優しさの連鎖を生み出してほしい。そう思います。
仏教的に言えば、それこそが、苦い過去から生まれる、最も尊い価値なのです。
攻撃的な表現を避けて通れない社会で必要なのは、「自分は攻撃性が高まっていないか?」きちんと俯瞰できることだと思います。
ヨガの時間は自分を俯瞰する時間です。
刺激の強い社会で誰かの攻撃性をみたときこそ、ヨガで自心を治めてあげましょう。