馬車馬のように走る日々の中で、私たちが「自分」に還る場所

私の人生に彩りを増やしてくれる甥っ子は高校1年生です。
多感な思春期。悩み事は数知れず。
ちゃんと将来に不安を抱え、迷い、悩み中です。
そんな最近の甥っ子は本当に忙しそうです。
その時代を楽しむ時間は持てない学生の日常
朝練から始まり、夕方まで部活、その後は夜遅くまで塾。
1年生の時から常に受験を意識し、ひたすら「勉強」に追われる日々。
そこには、私の時代にあった「高校生活を謳歌する」という概念は、もはや失われてしまっているように感じました。
卒業したら大学へ、そして社会へ。
「何者か」になるために、ひたすらスペックを積み上げ、自分を磨き続ける。
しかし、いざ社会に出れば「自分で何をやるべきか探しなさい」と突き放される。その探し方がわからなければ、深い迷いの中で「これでいいのか」と自問自答しながら、ただ年を重ねていくことになります。
日本は、学生時代は馬車馬のごとく勉強し、社会に出れば馬車馬のごとく働くことが美徳とされがちです。
常に何かに追われ、心に余裕をなくしている人が増えています。
一方で、デンマークには「ギャップイヤー」という、学びの後に一年間の空白を設けて見聞を広める習慣があるそうです。
今の私たちに必要なのは、こうした「立ち止まる勇気」ではないでしょうか。
私は大学生の頃、自分がヨガインストラクターになるなんて想像もしていませんでした。様々な縁が今の私を作っていますが、これが唯一の正解だとは思いません。ただ、この仕事が本当に楽しく、自分にとっての天職だと誇りを持っています。
けれど「これしかない」と執着しているわけでもありません。
私たちは同じ存在性を持っていると説くヨガの教え
ヨガが教えてくれたのは、人は本来、外側の肩書きや役割を脱ぎ捨てれば、誰もが「何者でもない」同じ存在だということです。
どんなに素晴らしい成果を上げた人も、今迷いの中にいる人も、その「いのち」が持つ価値に優劣はありません。
私たちは、ただ存在しているだけで、等しく尊い。
この絶対的な安心感こそが、ヨガが授けてくれる「在り方」の根幹です。
しかし、私は「頑張らなくていい」とは思いません。
むしろ、何者かになろうと切磋琢磨し、目標に向かって挑む姿勢は、とても尊く美しいものです。
私たちの手元にあるスマホも、街を走る車も、電車も。
すべては誰かが限界まで頑張り、より良い未来を願って形にしてくれた努力の結晶です。
誰かのために、社会のためにと力を尽くせる人は、本当に素晴らしい。
私は、安易な「頑張らなくていいよ」という言葉は好きではありません。
大切なのは、「頑張らなければ価値がない」という強迫観念で自分を追い込むのではなく、自分のいのちの価値を認めた上で、楽しみながら、誰かのためにその力を培っていくことです。
誰かの笑顔のために自分を高める。
それは利己的な競争ではなく、愛に基づいた自己研鑽です。
だからこそ、ヨガの「自分を観照する力」が必要なのです。
馬車馬のように駆り立てられて心身を削るのではなく、まずは自分を静かに見つめ、整える。自分が今、何のために頑張っているのか。心は健やかか。
「何者か」を目指して走り続ける情熱を持ちながら、同時に、ふと立ち止まって「今の自分」という尊いいのちに還る。
楽しみながら、誰かのためにその力を培うために、ヨガの時間はとても有効です。
頑張るあなたが、自分を削ることなく輝き続けられるように。
そんな「余白」と「軸」を、ヨガを通じて共に育んでいけたらと願っています。